2015年7月2日木曜日

ばった

おととい庭で出会ったショウリョウバッタをこころのなかに住まわせる。


きれいな緑で、ちりめんじゃこより小さいのに高く高くよく跳ねて、それがかわいくて、ほんとうは何かに入れて飼おうかとおもった。けど、それがどれほど無意味なことであるか、すぐに気付いてやめた。かわいさをただ監視するためだけに、逃げられないようにしてむりやり自分のそばに置いておきたいなんてことを、「飼いたい」なんてとぼけた言葉にして一瞬でも考えたことが、とてもかなしい。バッタ自身がどれだけ跳ねてもどこにも行けないって気付いてしまったら、かわいそうなことに、二度と飛び跳ねたくなくなってしまうかもしれないのに。バッタの跳ねたい高さを奪おうなんてことを、どうしてわたしは。


大人になるにつれて、どんどん冷たい人間になってしまった気がする。自分の持ち合わせているやさしさについて考えると、いつも、あたたかさをあきらめたようなものしか見当たらない。


でも、わたしがまだちいさい子供だったら、バッタ、捕まえていたとはおもう。そしてわたしは幸せなきもちで満たされ、そんなわたしをよそに、バッタは密かに意気消沈しただろう。


そう考えるといまのわたしのほうが、若干やさしい気がする。でも、そのやさしさは決して本当のやさしさではなく、一瞬のたくらみを確かに含んでいたわけで、決して純粋ではなく、ぱちもののやさしさのようにも思える。


そういうわけでバッタをつかまえなかったので、ただただバッタのすがたを思い浮かべて、うまいこと、こころのなかにバッタを住まわせたわけで。バッタはとびはねる。いっぴきにひきと増えてゆき、ちいさいバッタはそこそこ大きくなる。草かなにかを食べる。そしてとびはねる。微かな着地音、軽やかな軌道、あざやかなグリーン、美しく、静かな躍動。どこまでもどこまでも高くとびはねて、夏がおわるころ、どこにもいなくなってしまう。バッタも、きっと、やさしくなかろう。

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