2015年2月27日金曜日

雑記227

休みで天気も良いけれどあんまり体調良くないし、家にいる。

午前中から里芋を煮た。里芋ってちょっと高いし皮を剥くのが面倒だから嫌なんだけどここのところずっと里芋を煮たのが食べたくて。しかも食べたいあまりにネットで「里芋 煮っころがし」とかで画像検索してたら、両手でタオルを絞るようにして里芋をにぎっている人の手元の写真と、握られた拍子にズルっと、内面と外見がずれるようにして皮の剥けてしまった里芋の写真が並んででてきて、そのままページに飛んだらどうやら切れ目を入れてレンジにかけるとそうなるらしく。すごく楽しそうだったから昨晩雨の中スーパーに行って買ってきた。

実際にやってみたらまあネットで見た写真程ではないけれどズルっとよく剥ける。でもある程度熱が通っちゃってるから既にねばりがすごくて、皮が剥がれた拍子に本体はつるっと手から離れ、鍋に飛び込んだ。やる気のある里芋。やる気がありすぎてすぐに煮えた。とても簡単になったけどやはり煮はじめから熱が通ってると煮崩れる。

すぐ煮えてしまって暇になったので昼から酒を飲む。喉の調子が悪いから蜂蜜をいれたホットワインを一杯だけ。身体が温まって、風邪が悪くなったらどうしようとかいう不安も忘れて、ちゃんと休めそう。

蜂蜜はバカみたいなプーさんの容器のやつを買いました。味はまあふつうだけど見テクレが面白い。仕事の合間に買ってかばんに入れたまま仕事をしてたんだけどかばんに入ってるのがおかしくて仕方なかった。それで写真を撮ったんだけど写真をみるとそこまで面白くもなくて、多分あのくらいからあんまり調子良くなかったのかな、と思う。



ちなみに少し使ったら顔面蒼白みたいになってしまった。



里芋の写真は食べてしまったからない。ホットワインは調子が良いので、しばらくはビールをやめてこちらにする。冬が終わり、春が爛漫になる頃まで。



2015年2月24日火曜日

ゾッと

おかしなことだとは思うのだが、最近、味噌汁をつまみにビールを飲むのにはまっている。右手にビール、左手に味噌汁の椀を持ち、交互に飲むのである。考えれば考えるほど意味がわからないと自分でも思うが、やめられない。ビールの苦味と味噌の塩気、そのバランスもさることながら、交互に飲むことで「つめたい、あったかい、つめたい、あったかい」となるのが良いのだと思う。
うちには幽霊がいるのだけれど、今日も今日とて現れて、今日も今日とて味噌汁をつまみにビールを飲んでいるわたしを見るなり「うわ、またやってる」と言ってきた。わたしはゾッとした。

2015年2月15日日曜日

ストライク人間

人間としてくらす一生のうち一度くらいは、違う生き物になってみたいなあとおもう。一番の理想としては猫、或いは花、または男でも良い。そのほかの何かでも、べつにかまわない。違うなにかになった時、それまでの自分のような人間のことをどんな風におもうか、とか、元のとおり人間に戻ったときに、それまでと同じわたしでいられるのかどうかとか、そういうのを知りたい。それから、ほんのひとときでよいので、本当の自分を探したり、見つめたりするという行為、内省のすべてをやめにしたい。

きょう、渋谷をあるいていたら、以前一緒に働いていた人を見かけて、その人をとりまく環境こそ変わったみたいなんだけど、そのひとはそのひとで、ずっと変わらぬそのひとだった。わたしもまるっきり同じで、仕事とか、髪型とか服装とか、付き合ってる人間とか、まるっきり変わったけど、結局わたしでしかなくて、なんだかとても泣き出したくなった。

変わりたい、変わりたいと思って、いろいろなコミュニティをかけまわって、いろいろなことをして、もちろん、その経験が役に立って、いまの自分をいきる上で糧となっている部分は大いにあるのだけれど、
本質的なところで、わたしってずっとわたしで、どこへ行っても、だれと過ごしても、どんな化粧をして、どんな髪型や服装をしても、かわらない。体についてるもん取ったって変わらないとおもうし、たとえば狂ったりしたら、逆に我に正直になるんじゃないかとさえおもう。外国とかいって、自分さがしの旅とかもししても、到底、灯台下暗しくらいの結論しかでなさそう。うんざりする。

わたしはたぶん、失礼なほど他人に興味がないし、自分ではなにが自分らしさか具体的にはわかってないけれど、いちばん興味があるのは自分が何者で、何者として生きていけるかということなんだろうなと、非情にも思うので、わたしがわたしでしかないという結論は、サイコーに最高でサイコーに絶望的だ。

人間、きっと一生成長しない。成長したとして、それは小手先のもので、わたしはずっとわたし、何者でもなく、日々の暮らしにこびりつく影のような、おまえ。10代のころ、人間のくせしてまわりの人間と馴染めずにいたとき、「はやく人間になりたい」とかほざいていたおまえ。あんなになりたかった人間らしくやっとなったのに、人間なんかもうさっさとやめちまいたいと思ってるじゃないか。かわりたいね、あたらしい自分になりたいね、そういっていくらもがいても、人間は、そんなに単純なつくりをしていないのだ。

あした、目が覚めて奇跡的に猫になってたら、上記のような話をして、死ぬほどひっかいてやろうと思う。


2015年2月1日日曜日

髪、そろそろ結って眠るようにしなければ。わたしの重みと枕の繊維の間でこすれていつか薄いビニルテープのように裂けてしまうようになる。何年か前に髪の長かった頃はまさにそのようになってしまって哀しくて苛立って勿体無いけれど短く切り落としてしまった。ほんとうに非道いことをしたけれど髪はまた伸びてきてくれた。

来週か再来週あたり美容院に毛並みを整えに行こうと思う。いつも担当して下さる美容師のお姉さんは春に美容師の仕事を辞めて外国へ行くという。いつかどうして美容師になったのか尋ねたとき、大人になるずっとずっと前から自分は美容師になるんだなとただ思っていて、自分の髪も友達の髪も自ら切っていたしそのまま当たり前のように美容師になった、だからどうしてということはないと話してくださった。

わたしは人生を道に例えるのってイメージ的にあんまりしっくりこなくて、じゃあ何かと言われると銀河のようなところでボルダリングするイメージで、星々のなかから足場を常に選択し彷徨い続けて行くような感じが人生なんじゃないかなと思ってる。だからなのかあんまりこう「まっすぐな人生」や「まっすぐな人生を送る人間」の存在を信じられないのだけど、道に例えようが銀河に例えようが結果的にまっすぐ進んでいるひとがやはり現実に存在する。
そういう人たちもわたしがするのと同じようにいくつもの選択をしているのだろうが、そのひとつひとつがわたしよりもずっと的確で迷いがないのだろうなと思う。
いつもあの星にいくべきかこの星に来るべきでなかったかとフラフラしているわたしには、迷いなくまっすぐ進んでいく人が放つ青黒く美しい長い髪のようなしなやかな閃光がまぶしくて仕方ない。